天文3年(1534)安保全隆(あぼぜんりゅう)【安保泰忠(あぼやすただ)】によって建立された。 方三間の杮葺、初層方形、上層円形平面、高さ約18メートル、間口・奥行約4.5メートル。
塔の真柱正面には「天文三甲午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆」等の墨書がある。 建立年代がはっきりしている県内有数の木造建築物で、国の重要文化財に指定されている。
神社から約400メートルほど登った御嶽山の中腹に、幅5メートル 高さ9メートルの平らな岩肌がみられる。 紅鉄変岩スレ肌という およそ9000万年前の岩断層活動の跡で、断層面が出来るときに強い摩擦力で 岩面が鏡のように磨き上げられた 貴重な地質学資料である。昭和31年(1956)に国の特別天然記念物に指定された。
伝説によると、上州の高崎城が落城した際には火災の炎が岩面に映ったという。また御嶽山は山城のため、 月明りが反射して敵の標的とならないよう 松明でいぶして赤褐色にしたとも伝えられている。
丹(たん)党 安保(あぼ)氏の持城の一つに、御嶽山に築かれた御嶽城がある。 南北朝時代に長井斉藤別当実永が築城し、文明12年(1480)に安保吉兼が再築城したと伝えられる。 武蔵と上野の国境の山城として重要視された。
安保氏は戦国時代に関東管領 上杉憲政に属したため、天文21年(1551)に北条氏康の攻撃を受け 山麓の社殿・堂宇は焼き払われた。降伏した安保氏は以後 北条方に属したが、永禄13年(1570)には 上野国から侵入してきた武田軍と激戦となり、御嶽城は落城した。 その後、上野国三ツ山城(群馬県藤岡市)の武田氏の家臣 長井政実が城主となった。 金鑚神社は長井政実の庇護を受け、江戸時代になると幕府から三〇石を賜って安堵されている。
御嶽山は標高が 550メートルあり、北関東を一望できる眺望の優れた山である。 現在、御嶽山には城の遺構が残っている。
この碑は、養蚕業の発展に貢献した木村九蔵(きむらくぞう)の業績を讃えるため明治32年(1899)に立てられた。碑の題額は、初代内閣総理大臣 伊藤博文の書である。
木村九蔵は、弘化2年(1845)上野国緑野郡高山村(群馬県藤岡市)に生まれ、元治元年(1864)新宿村寄島(神川町大字新宿)の木村家を継いだ。少年時代から養蚕法の改良に励み、火力を利用して換気乾燥する温暖飼育法を開発し、明治5年(1872)に「一派温暖育」と名づけて発表した。
明治10年(1877)、「養蚕改良競進組」を結成して温暖育の普及に努め、13年(1880)には新品種の繭「白玉新撰」を世に出した。その後、17年(1884)に「養蚕改良競進社」と改称し、甥の木村豊太郎、浦部良太郎を副社長として組織の充実を図り、養蚕伝習所を児玉町(本庄市児玉町)に開設して養蚕技術の指導にあたった。また、各地に支部を設けて指導員を派遣した。これにより、競進社の飼育法と白玉新撰は全国的に広まった。
明治31年(1898)、54歳で没するまで、養蚕器具、飼育標準表の考案、養蚕伝習所、換気用の高窓をもつ模範蚕室、蚕種貯蔵庫と多くの業績を残した。明治27年(1894)には、私利を考えず農村振興に大きく貢献したとして緑綬褒章を受けている。
養蚕伝習所は後に児玉農業高校となり、木村九蔵の精神は、今も県立児玉白楊高校に引き継がれ、模範蚕室は県指定文化財として児玉町の養蚕伝習所跡地に保存されている。
(神川町教育委員会)
児玉地方は江戸時代から養蚕が行われていた。明治維新以後、地元の養蚕家木村九蔵(きむらくぞう)によって 飼育法の改良が考案され、国の殖産興業政策と合致して、ますます盛んになった。
九蔵は養蚕伝習所である競進社を児玉町(本庄市児玉町)に開校するなど、全国的に大きな影響を与えるようになった。 明治33年(1899)には境内に頌徳碑が建てられ、同36年(1902)には二代目九蔵の発起によって 境内地に蚕影山(こかげさん)神社が祀られた。
養蚕農家の篤い信仰により 春蚕(はるご)の飼育が始まる前の4月17日に祭典が行われていたが、 近年の養蚕業衰退・参拝者減少により、現在「末社蚕影山神社祭」は休止している。
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